ゴースランドは、ノースヨーク・ムーアズ国立公園の北に位置しています。前述のとおり、TVドラマや映画のロケ地として有名ですが、それ以外の見どころは村はずれにあるMallyan Spout。その名を冠したホテルの脇に、フットパスがあり、そこから滝まで30分くらい歩きます。途中からはかなりのアドヴェンチャーワールドで、それだけでも十分楽しめますが、目指した滝はダイナミックというよりは、水音も静かな繊細なもの。あれれ!?私にとっては、ちょっと物足りなかったかな。
今回、長女と二人、ゴースランドを拠点に、Rosedale Abbey、Hutton-le-Hole、Danby、Witby、Robin Hood's Bayなど、ヘザーに染まる荒野から、北海に面した海辺の町へ、レンタカーで走りに走りました。滞在中、申し分のない晴天に恵まれたものの、地元の人から何度も、今年のヘザーの色付きはイマイチだと言われたので、ゴースランドを離れる頃には、もうすっかりその気になって、次の訪問の計画を練ってしまう私たちでした。
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バッチフラワーのレメディに使われている植物の中で、環境を一変させてしまうほど、広範囲に自生する植物の代表格であるヘザーは、バッチの七つのカテゴリーの中で「淋しさ」に分類されています。ネガティブな状態では、過剰に自己中心的で、誰かれなく掴まえては、自分のことを聞いてほしい、一人になりたくない、何でもいいから肯定してほしい、という気持ちを止めることができません(もちろん、こうした願望は、大なり小なり、誰の胸のうちにも潜んでいるものですけれど)。
実際にヘザーの咲く頃、荒野に身をおいたらどんな感じかなあ。ノースヨーク・ムーアズへの旅の第一目的は、そこにありました。そしてそれを証明するかのように、見渡す限りの荒野、身を寄せる木もなく、ヘザーの中に1人、ぽつんと立っていると、自然に「孤独」という言葉が浮かんできます。ああ、これだ!この淋しさ、この孤独感、寂寥感。花の季節でもこんな気分になるのですから、もしこれが冬の荒野ならいかばかりでしょう。思いを巡らすうちに、ふと日本の春、満開の桜の風景が浮かんできました。夢見るような淡い桜色、匂い立つ華やかさと、うらはらな儚さ、無常、寂寥、淋しさが。
ヘザーの孤独感と、桜の寂寥感は、ともに「淋しさ」と表現できるかもしれません。けれど、同じ淋しさと言っても、植物のクオリティの違いもあり、同じレベルで比べることはできません。ただ、違いとして分かりやすいのは、花が咲いている位置が異なっていることです。樹木である桜は、私たちの目線より上にあり、空間的、天上的。一方、低灌木のヘザーは見下ろす足もと、高さはせいぜい4,50㎝です。印象として、桜からは、死生観につながる淋しさがもたらされますが、大地を覆い、大地に縛りつけられているかのようなヘザーには、地上的、現実的世界と強く結びついていることを感じます。固い茎を持ち、小さな枝葉が絡み合い、もつれあいながら、全体を成しているヘザー。それはあたかも、一人では心細く、たがいに依存しあっているように見えます。もし一人になったら、きっと途方に暮れてしまうでしょう。
ヘザーが大地や人間と強く結びついていることは、スコットランドのピート(泥炭、草炭)からも知ることができます。ピートは枯れたヘザーが何百年もかけて堆積し土となったもの。スコッチウィスキー独特の味わいはヘザーから生まれます。人を酔わせ、楽しませ、そして自らを火と燃して人を暖める。そう考えると、なんてヘザーは人好きで逞しい花なんだろうと思います。
「愛情に飢えた子ども」と形容されるヘザーの孤独感は、威圧的な態度で、知らず知らずのうちに、人に避けられたりすることで、より深まるのですが、群生するヘザーの形姿から学ぶことは、他者との関係の中でしか、私たちは自己を磨くことができないということ。むしろ孤独によってこそ、自我は洗練され、他者への優しさも育まれていくということです。ともすれば、本当の願いとは全く逆の言葉や行為で、他者ばかりか、自分をも傷つけてしまうことが、なんと多いことか。人との対話、植物との対話、風景との対話、自分や世界を理解するために、話すこと以上に、声なき声に耳を傾ける、聴く力の大切さを思わずにおれません。
夏が逝き、内なる世界が目覚める秋、ヘザーをきっかけに、私といつも一緒にいる「私の孤独」を、みつめてみるのも楽しいかもしれません。
皆さま、それぞれの秋を健やかにお過ごしください。